二章 蟲飼いの山 ~懶惰なる山河、山々の襞~

 

 2 石の板

 



 リュウスケが、スノハラの後を継いで、静かに語り始める。
「そういえば、職場の変な人の話、私もありますね」
 すかさずスノハラが割り込む。
「ちょっと待ってよ。職場って、この店のこと?」
 マキも不思議そうな顔を隠さない。
「店長のリュウスケさんの他には、いつもアルバイトの若い女の子が一人いるだけじゃん。コロコロ変わるけど。リュウスケさんに振られては辞めていく、って評判よ」
「おいおい、初耳だよ、それ。聞き捨てならないな。アリエちゃんだっけ、この間辞めた子。何? リュウちゃん、あの子振ったの? もったいないなあ。俺だったら……」
 スノハラが声を上げる。さんざん喋って気持ちよくなって、酒もようやく回ってきたのかもしれない。マキも大笑いする。笑いながら、スノハラの冗談に少し怒っている。
 リュウスケが困り顔で、言いたい放題の二人を制する。
「ちょっと待ってくださいよ、もう。そもそも、そんなの事実無根です。それに私が話そうとしてるのは、私が若い頃、清掃会社で働いていた時のことですよ」
「へえ。意外。そんな仕事してたの」
 マキが興味深そうに尋ねる。
「そこでお金貯めて、この店開いたんです」
 リュウスケは答える。
 リュウスケは飲んでいないし、マキも全然酔っていない。スノハラだけが、多少調子はずれな気配になっている。
「うん。分かった。アリエちゃんを振った話は、腹立つからもういいよ」
「だから、違いますって」
「もう。早くその昔の職場の話をしてちょうだい」
 マキに急かされ、リュウスケは話し始めの真面目な顔に戻った。
「そうですね。では話させていただきます。……さて、皆さんは、同僚のカバンの中身なんて、興味持たないし、もし持ったとしても、まあ見ないですよね、普通は」
「何か、芝居がかってるなあ」
 まだチャチャを入れたそうなスノハラを、マキは横目で睨む。
「もう! いいじゃないの。そこはほら、客商売のプロの話術ってやつよ。はい、私だったら見ないです。それで?」
 リュウスケは話を続ける。
「さっきの話の女性、仮名田中女史でしたっけ。じゃあ私は仮名鈴木青年にしましょう。鈴木君っていう若い同僚がいましてね。私より後にその会社で働き始めたので、後輩ということになります。歳はその頃の私よりもずっと下。そうですね、そのころ、二十歳そこそこだったんじゃないかな」
「ほうほう、その鈴木青年、どんな人だったの」
 観念して、スノハラも真面目に聞こうという態度を見せる。
「まあ、暗い男でした。さっきのお話の、田中女史と似た感じかな。もちろん田中女史とお会いしたことないですけどね」
「まあとにかく、暗くて、付き合い悪いんだな、それで?」
「そう。そういう人って、本人のいない所で有ること無いこといろいろ噂されちゃいますよね、さっきの田中女史と同じで。で、私の会社の場合も、別の同僚が言うには、鈴木青年はいつも大きな瓦のような物を持っている、カバンの中に入れて持ち歩いてるって」
「まあ? 重いでしょうに」
 マキが変な感想を述べたので、リュウスケもスノハラも苦笑した。
 スノハラが気を取り直して話を続けさせようとする。
「どういうことなんだろうね。誰かちゃんと見たの? その瓦を?」
 リュウスケは、はいともいいえとも言わず、話を続けようとする。だがスノハラが割り込む。
「あ! 暗い、って、その男、都市ゲリラなんじゃないの? ほら、巷(ちまた)で話題の爆弾闘争の。その変な荷物も、爆弾か火薬なんじゃないの?」
 今度はマキが、わざと冷たく、先ほどの意趣返しをする。
「あのねえ。毎日爆弾担いで仕事に来る非公然活動家なんて、一体どこにいるってのよ?」
「だって、爆弾三勇士みたいにさ、革命のために自爆しようなんて酔狂な奴もいるかもしれない……」
 リュウスケが、止めに入る。
「あのね、これは昨今の話じゃありません。だから左翼学生の話じゃない。十年以上も前の出来事です」
 スノハラは顔を赤らめる。マキはご機嫌だ。
 さて、とリュウスケが咳払いをする。
「この話には、続きがあります。いいえ、まだ始まってもいないのです」
「へえ」とマキ、スノハラの声が揃う。
「そうですね、ちょうど今夜みたいな、土砂降り。とても激しい夕立ちでした。鈴木青年、夕方に私より先に仕事を上がる日だったんですが、ついさっき帰ったと思ったら、職場の更衣室にまた戻って来たんですよ」
「ああ、そしたら、すごい肥満体に変身してたと」
 スノハラの横槍が止まらない。
「ちょっとスノハラさん、いい加減、茶化すのやめていただけます?」
 マキが半ば本気で叱る。
 リュウスケも、少しだけ迷惑そうにスノハラを見ている。
「そんな話じゃありません。変身なんてしてませんよ。その鈴木青年、普段ほとんど喋りもしない人だけど、ちょっとだけ、雨ではしゃいでたのかもしれない。いやあ、濡れちゃった、なんて独り言を言ってましたからね」
 マキが、その場面を思い浮かべながら言う。
「でも、独り言なんだ。リュウスケさんに話しかけたんじゃなくて?」
 リュウスケは深く頷く。
「ええ。そこが大事なんです。私、更衣室の一番奥で、休憩時間だから休んでたんです。私も声かけないのは悪かったですけどね。私はその時、疲れてグッタリしてました。清掃作業ってのは体疲れますからね。それに鈴木青年は私に気づいてるもんだと早合点してた。でも違ったみたいで」
 スノハラは、マキに調子を合わせた方が得策だと判断したようだ。
「あるある。そういうことって、あるよねえ。ほうほう、それで?」
「で、鈴木青年、更衣室に入って来て一息つくなり、いつもの同じ、カバンというかズタ袋みたいな、要するに大きな背負い袋ですね、その中から、確かに瓦のような大きくて薄くて四角い形の物を、取り出したんです」
 そこまで聞いて、マキが急に声を上げた。
「やだ怖い!」
 スノハラが、リュウスケからマキに視線を移す。
「え? 何で?」
 マキは、楽しそうに怯えている。
「だって、本当に瓦だったら、面白い話にならないじゃない。その鈴木さんって、ただの変な方ねえ、瓦屋さんにでもなりたいのかしら、で終わっちゃうわ。でしょ? リュウスケさん、何か違う物が出てきたんでしょう?」
「名推理です、マキさん」リュウスケが頷く。
「で、何? もったいぶらないでよ」
 さっきまで話の腰を折り続けていたスノハラが、先を急がせる。
 リュウスケは、そんな二人を焦らすように、もったいぶった口調で、ゆっくりと語る。
「はい、その袋の中から鈴木青年が取り出したのは、綺麗な青白い石板でした」
「セキバン……。石の板? おっきいのかしら?」マキが身を乗り出す。
「ええ、かなり大きかったですね。そして薄い。ですから、ちょうど瓦ぐらいの形状で……」
 マキは、愚問だった、と言う顔をして、少し拗ねて見せた。
 リュウスケが続ける。
「で、私が、何ですかそれ? って声をかけたんです。そしたら鈴木青年、すごくビックリしちゃって。私がいるって全く気付いてなかったんですね。で、その鈴木青年、返事もしない。あ、こりゃ無視してまたすぐ出て行っちゃうのかな、って思ったんですけど、鈴木青年、すぐには帰れない。なんでかって言うと、戻って来たのは、手拭いで石板を拭きたかったからなんですね。なので、私に背を向けて、隠すようにして、ゴソゴソしてるんです」
 スノハラが納得のいかない顔をする。
「石板ねえ。見間違いじゃないの? 何か別の道具か何かなんじゃないの。まな板とか。それとも、やっぱり実は瓦だったとか」
 リュウスケは首を横に振る。
「いえ、私もその時は好奇心の塊みたいになってますからねえ。肩越しに覗き込んだけど、やっぱり、石なんです。瓦みたいな、まな板みたいな形なんですけど、確かに石なんです。模様は無くて艶があって、すごく綺麗で。だから私、尋ねたんです。それ、お料理のお皿か何かかい? って」
「ああ、話しかけたのね。そしたら? 無視されなかったのかしら?」
「間違ったこと言ったから、かえって良かったんでしょうね。ブンブンって横に首振って、『石です、ただの石』って、鈴木青年は答えてくれました」
「じゃあ、石版って、推測じゃなくて、間違いないわけなのねえ」
「私も、それで話終われるわけないですよね。ああ石ですか、そうですか、ご立派な石ですね、で終われるわけがない。だから、いろいろ質問したんです。何に使うんですか、とか」
「まあ、そうだよね」しばらく黙っていたスノハラも、相槌を打つ。
「それで私、意地悪なぐらい、しつこく話を聞き出そうとしたんですけどねえ、……でも鈴木青年、支離滅裂なんです。ナンセンス。この石の中にはムシが、ナガムシが棲んでいる、って。これは、はっきり言ってたな。間違いないです。でもその一方、その石のこともナガムシって言ってた気がするんですよね」
「新しい宗教?」マキが、難しい顔で呟く。
「それか、土着の古い信仰かもしれない」とスノハラ。
 リュウスケは、うんうん、と頷く。
「私もそんな感じかと思ったんです。だから私、変な顔しなかったですね。むしろ、それってありがちだな、って妙に納得しちゃって。鈴木青年に『そういう信仰みたいなもんですか? 御利益がありそうですね』って」
「ふむふむ」と聞き役の二人。
「そしたらね、これがさらに奇妙なんです。鈴木青年はね、途端に、何言ってるのか分からない、って顔になって。そろそろ気まずさも限界ってところにきてしまって。何となく、もう話聞き出せない」
「はあ、じゃあそれっきりになっちゃったのねえ。さっきのスノハラさんの、田中女史にもう質問できない、みたいなのと同じ感じ?」
「いえ、でもですね、口下手な鈴木青年なりに、頑張って答えてくれたんだと思うんですよ。最後に、更衣室を出る間際に、鈴木青年ちゃんと話してくれたんです。それがね、また意味不明なんだけど……、『肌身離さず持ち歩くことになってるから、そうしてるだけ』なんですって」
 スノハラは、いつの間にか腕を組んで考え込んでいる。
「ふうむ。持ち歩くことになってる、か。何かきっと、義務なんだな」
 うんうん、とマキも頷く。
「持ってても、重いだけで何もご利益ないのよ、きっと。でも、持ち歩くのをやめると……何か……怖いことが」
 リュウスケも、それを肯定する。
「はい。確かに、そんな感じに聞こえましたね。でも私、それ以上は分からないんです。というのは、鈴木青年、そのすぐ後、いつの間にか職場を辞めていましてね。いつ辞めたんだか誰もはっきり分かんない。最初からいなかったみたいな感じ。誰ももう鈴木青年の話なんて、しなくなっちゃって」

 

(2013年 8月)