ヒルトンホテル2 シェルパ




 立体交差になっている大通りを歩いていると、シェルパに追い抜かれた。歩く速度が異常に速く、それでいて一歩一歩確実にアスファルトを踏みしめていた。小さな屈強そうな背中から、枯草の臭いがした。
 ということは、この先でクライミングが始まっているに違いない。腕時計を確認する。取引先との打ち合わせの時間まで、まだ余裕がある。
 私はシェルパの後ろ姿を追って、ヒルトンホテルの方向に進路を変えた。

 先ほどとは別のシェルパが前方から歩いてきた。私は神妙な顔ですれ違う。シェルパの男は大きな麻袋を背負っていた。その底から多量の鮮血が漏れ出し滴っていたので、厭な気持ちがした。それどころか麻袋の口は無造作に開いており、クライマーの脚やら腕やら頭やらが、野菜のように飛び出している。
 麻袋から半分顔を出している、後頭部が豆腐のように潰れた血みどろの白人と、目が合ってしまった。そいつは夢見心地な口調で話しかけてきた。

  Hi! Join us! (よう! お前も来いよ!)

 私は、できるだけ冷静な口調、しかし確固たる口調で、返事をした。

  Fuck off. (成仏してろ)

 ヒルトンホテルの前の道路に到着すると、案の定、外壁に何十人もの軽装の連中が群がっていた。フリークライミングなのにシェルパというのは不似合いだ。シェルパは基本的には山岳ガイドであり荷揚げ要員だからだ。ましてや、そこが高い山でなくヒルトンホテルなら、なおさら不似合いだ。
 今日のシェルパたちは、雇われたのではない。勝手に集まってきたのだ。それにはもっともな理由がある。彼らもアメリカ人たちの大騒ぎの合間に同じビルの壁を登る。壁の途中に引っかかった死体や死体の一部を降ろすためだ。(地面に落ちた死体は、アメリカ人の仲間や救急車が回収する。あるいは摩天楼の谷間に巣くうネズミやカラスのエサとなる。)シェルパは、命がけで回収したそれを、死体の勤め先の外資企業か大使館かどこか知らないが、しかるべきところに届けてやって、礼金を受け取るのだ。

 アメリカ人は全員が落ちて死ぬわけではない。素人臭い力任せのクライミングのわりには、大半は無事登り切る。もとよりアメリカ人は成功と勝利と栄光が大好きで失敗と敗北は大嫌いな連中だ。ヒルトンホテルの上で登頂成功を肩を組み喜び合うアメリカ人。道半ばで落ちた仲間のことは完全に忘れている。
 しばらくすると、今度は十人ほど、妙にスポーティーな集団が一斉に登頂に成功した。やりとげた、という感情表現が控えめだったので、かえって目をひいた。やがてそいつらは、屋上の端に並ぶと、合図とともに同時に飛び降りた。集団自殺ではない。こんな爽やかな集団自殺があってたまるか。
 案の定、そいつらは一瞬自然落下の重力に身を任せたが、バッと空中で大の字になった。腋の下と股の間に、大きな膜のような布がはためいた。とたんに真下への落下は止まり、ハングライダーのように斜めに、あるいは水平に、滑空が始まった。
 こんな器具はいまだかつて見たことがないし、こんなもので飛べるということが信じられない。でもアメリカ人なら、いかにもこういうものを発明しそうだし、得意げに見せびらかしそうな気がする。空飛ぶアメリカ人たちは、気持ちよさそうに四方八方散り散りに消えていった。見事なもんだ。見物人たちは皆、素直に感心していた。

 滑空するアメリカ人を目で追っていると、一人が、三井ビルの真ん中あたりに激突した。もしかすると都庁や他のビルにぶつかった奴もいるかもしれない。
 三井ビルの外壁の一番下を、早くもシェルパが登り始めているのが見えた。

(2016年 10月)